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原告 準備書面(5)


平成21年(ワ)第2957号 損害賠償請求事件
原 告 伊 藤 啓 子
被 告 社会福祉法人名北福祉会

原告準備書面(5)


2010年12月 日

名古屋地方裁判所民事第6部合議係 御中

原告ら訴訟代理人弁護士 岩  月  浩  二
同       弁護士 中  谷  雄  二

1 この問題の本質
 本件は、知的障害・自閉症をもつ若者の死亡による損害賠償を求める事件である。そこで最大の争点とされているのは、逸失利益の問題である。
 民法における損害賠償の目的は、損害の公平な分担にあるとされている。公平なというのは、我が国の法秩序の観点からの公平ということである。
 それは我が国の憲法、これを受けた民法第1条及び第2条に従って判断されるべきものである。結局、生命が失われた場合に障害者であるかどうかで健常者に比較して極端に低い損害賠償がこれらの我が国の法秩序の観点から許されるかどうかが本件の本質である。
 以下、この問題について憲法学者である川崎和代教授の意見書(甲52号証の1)に依拠しながら、詳論する。以下の記述のうち、出典を明示しないものは、甲59号証の1の川崎教授の意見書によるものである。


2 生命の権利
(1)日本国憲法及び国際人権規約の生命の権利規定
 日本国憲法は13条で、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定めて、「生命」を国民の権利として規定している。この13条を根拠にするかどうかは別にして憲法学説上、生命が基本的人権の基礎にある基本権として憲法上保障されていることに異論はない。
 国際人権規約B規約は、「全て人間は生命に対する固有の権利を有する」(6条)と宣言している。これらの規定から見ても、生命がわが国法秩序の上で、「国政の上で最大限の尊重を必要とする」何ものにも代え難い人権であることに異論はない(甲59号証の1、1頁)。

(2)現実に存在する優生思想
 しかし、憲法上、国際人権規約上このような位置づけを与えられている生命権であるが、現実には、「誕生することや生存することが望まれていないかの如くに扱われている生命が」存在することも否定できない。障害を持つ子を殺害した母に対して数多くの減刑嘆願署名が寄せられるという事態は現在も続いている。しかし、障害児の生命を奪うという重大な人権侵害に対する怒りより、生命を奪った母に対する同情の方が広く共感を呼ぶというわが国の現実は、わが国社会に優生思想が蔓延していること、その優生思想こそ、人間の尊厳を否定された障害当事者の怒りを理解すらせず、生命を抹殺された障害児の声なき声に耳を傾けることにすら思い至らせなかった原因であることを知らなければならない。
 かってナチスドイツではこの優生思想の下で、障害者の生命を国家権力の手で奪った歴史的事実が存在する。日本においても、優生保護法において、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」(第1条)とされ、ハンセン病患者が断種や中絶を強制されてきたという歴史は、優生思想に基づき法的に生命の選別を行っていたことを意味する。しかし、この優生保護法も1994年、障害者の不妊化を正当化するものであると国際的な批判にさらされ、1996年「らい予防法」の廃止により、優生保護法の「らい疾患」に関する条項が削除され、1993年に制定された障害者基本法のノーマライゼーションの理念と「優生思想」との矛盾が決定的となり、廃止されることになった。このような露骨な優生思想は法制度上、影をひそめることになったが、障害者に対する差別やバリアは、今なお法制度からも、人の心の中からも消滅してはいない。障害者基本法が制定され、その後物理的バリアを除去するための各種法律は整備されてきたが、障害者差別禁止法は、未だ制定されていない。その意味でわが国では、「障害者が障害者であり続ける権利」が、未だ確立されているとは言い難い状態にある。

(3)人権享有主体としての障害者の歴史的変遷
 本来、人権は、「人が人であることに基づいて当然に有する」権利で、「一定の身分や人種や性別を前提として享受しうるものではなくて、人間本来の権利として存在するもの」である以上、障害者であっても当然人権を有する筈である。ところが、現実には、障害者の人権問題は、「人権主体としてではなく、健体者・健常者とは区別=差別して、別のカテゴリーで捉えられる『差別』の法体系を前提に」し、「社会的危険主体として、無差別に、社会的隔離の段階から、社会的選別、社会的統合などの処遇の推移をへて」、人権主体として「漸次確立への歩みを辿っている」と指摘される(中村睦男「1 人権の歴史的展開と人権の規範的構造」・河野正輝他編『講座 障害をもつ人の人権』有斐閣1、第1章、4頁)ように、障害者は人権確立の歴史の中では、「無価値」あるいは「有害な」生命体とされ、軽視ないし蔑視されてきた。その障害当事者が、「私たち抜きに、私たちのことを決めないで(Nothing about us without us)」というスローガンに代表されるように、障害当事者が中心となって21世紀の国際社会に「障害者権利条約」を送り出したのである。

(4)障害者の権利条約における障害者の権利保障の社会的価値と利益
 障害者の権利条約は、その前文において、「(C)障害者が全ての人権および基本的自由を差別なしに完全に享有することを保障することが必要であることを再確認し」、「(h)いかなる者に対する障害に基づく差別も、人間固有の尊厳および価値を侵害するものであることを認め」、「(k)これらの種々の文書および約束にもかかわらず、障害者が世界のすべての地域において、社会の平等な構成員としての参加を妨げる障壁および人権侵害に依然として直面していることに憂慮し」、「(m)障害者が地域社会における全般的な福祉及び多様性に対して既に貴重な貢献をしており、または貴重な貢献をし得ることを認め、また、障害者による人権および基本的自由の完全な享有並びに完全な参加を促進することにより、その帰属意識が高められること並びに社会の人的、社会的および経済的開発並びに貧困の撲滅に大きな前進をもたらされることを認め」、そして、「すべての障害者によるあらゆる人権および基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、および確保すること並びに障害者の固有の尊厳の尊重を促進することを目的(1条)」として制定されたのである。
 ここには、障害者が全ての人権と基本的自由を差別なしに完全に享有することが保障される必要性が説かれていると同時に、障害に基づく差別が人間固有の尊厳を侵害することを明らかにしている。そして、それにもかかわらず、現実の世界では障害者が社会の平等な構成員として参加することを妨げる社会的障壁及び人権侵害が存在することも直視している。
 そのような認識の上に、①障害者が地域社会の全般的福祉と多様性に貴重な貢献をし、貢献をし得る存在であること、②障害者の人権と基本的自由の完全な享有、それを前提とした社会への参加の促進により、社会全体の帰属意識が高められ、③ひいては、社会の人的、社会的、経済的開発、貧困の撲滅に大きな前進がもたらされるという理念を示し、「すべての障害者によるあらゆる人権および基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し、および確保すること並びに障害者の固有の尊厳の尊重を促進することを目的(1条)」に障害者権利条約制定の目的を明確に示している。
 障害者に全ての人権と基本的自由を差別なしに完全に享有することが、社会にとって貴重な価値と社会全体の大きな利益をもたらすものだという理念の下に制定された条約なのである。その意味で、障害者の権利条約が想定する社会は、障害の有無にかかわらず、全ての人が個人として尊重され、その属性に基づいて個人あるいは個人の生命そのものに価値序列を付することを許していないのである。 

(5)障害者の権利条約と憲法及び国際人権規約との関係
 障害者の権利条約は未批准の条約であるが、同条約の制定過程において、同条約は「新しい権利」を創設するものではなく、既存の権利の享有が妨げられ完全な享有ができない状態を改善するために、その障壁を除去するための条約であることが基本方針として何度も確認されている(阿部浩己「第4章 権利義務の構造」・松井亮輔・川島聡編『概説障害者権利条約』55頁)。
 つまり障害者の権利条約自体は未批准であるとしても既に見たように国際人権規約や日本国憲法が定める障害者の生命の権利は、障害者の権利条約を待つまでもなく、保障されている権利であり、その権利の享有が社会的な障壁によって障害者に完全に享有されていないという認識に立って、その障壁の除去を具体的に定めたのが障害者の権利条約である。このことは、障害者の権利条約の上記前文に定める目的や障害者が権利を享有することの社会的価値と利益の認識を持つことこそ、障害者に(抽象的に)保障されている筈の権利の享有を具体化するものであることを示すものである。
 そして、このような国際条約と憲法との関係は、その方向が同じであるときには、国際条約の内容は、憲法の定める基本的人権の内容を豊富化するものとして、その内容を憲法上の権利として補充して解釈するのが一般的である(斉藤正彰「生命に対する権利」・高見勝利他編『日本国憲法解釈の再検討』有斐閣78頁)。

(6)私権の享有主体
 民法が、「私権の享有は出生に始まる」(民法3条)と規定するように、民法上も生命権の享有主体は、出生した人間である。つまり、「すべての人間は、出生と同時に民法2条の解釈指針(「個人の尊厳」を旨として解釈すべきしとの指針)のもと、生命および身体(=健康)の享受を内容とする権利(人格権の中核をなす権利)の現実的享有を始める」。それは、生まれた子供のいかなる属性ともかかわりなく、出生と同時に「人間としての尊厳」を獲得し、個人として尊重され、生命という権利の享有主体となることを意味する。そのことが国家の基本法たる憲法のみならず、市民生活に直結する民法においても、自明の前提とされているのである。
「人間の権利という意味での人権、人間が人間であるということだけを要件事実、つまり条件とする権利が、民法の一番最初の部分に書かれていることは非常に大事なこと」であり(甲 号証3頁)、すべての人が、出生と同時に「個人として尊重」され、政治的にも、経済的にも、社会的にも差別されない「人間の尊厳」を保障された人権享有主体となるのである。
 それにもかかわらず、もっとも重要な人格的利益である生命が奪われたとき、これを賠償するために「逸失利益」という考え方が浮上し、生命に価値序列が着けられるのは何故か。「ゼロ」と評価された人間は、「生命権の享有主体となりえない人間」、「生きていく価値のない人間」なのであろうか。「人間が人間であることだけを条件として享有する」はずの人権を奪われたとたんに、死者に対し、「生きていても、将来利益を生み出すはずのない人間であったから、経済的に無価値な人間である」と烙印を押すことは、生きていた時の、「人間としての尊厳」まで否定し尽くすことにはならないだろうか、。そのような考え方は、稼働能力とそれによる生産性によって、人間に価値序列を付けるものであり、20世紀中葉以前の市民社会の発想である。
 20世紀中葉以降は、「抽象的に観念される平等な人格の担い手が、・・・人間としてとらえなおされることにより、個々の人間は、生命、身体、自由、名誉その他その確保が各人の生存および人格生の条件であるような人格的利益の帰属主体として観念されるにいたり、こうした観念は、人格的利益の帰属に対するさまざまの侵害に対抗して『人格の尊厳』、『人間の尊厳』、『個人の尊厳』というような標語的表現を生み出しつつ、個々の人間はすべて人格的利益の帰属主体として認められ人格的利益の侵害から護られるべきであるという社会意識を社会構成員の間に定着させる。」このような意識を背景として、わが国民法も制定されているのであり、等しく人権享有主体である者の間に価値序列を持ち込むことは、わが国憲法及び民法の採用しないところである。
 その意味で、障害者の生命が失われた場合の逸失利益の問題は、障害者権利条約上、我が国のおける生命に対する権利と密接に関係する問題であると指摘されている(長瀬修「第6章 生命」・松井亮輔・川島聡編『概説障害者権利条約』91頁)。
 つまり、日本国憲法でも(それを受けてわが国民法でも)国際人権規約でも生命の権利は、従来から障害者であろうと健常者であろうと保障されていたものであるが、「障害者が他の者との平等を基礎としてその権利を効果的に享有することを確保するためのすべての必要な措置をとる」ことを同条約10条で規定しているように、障害者の権利条約は、障害者であることによって、健常者と平等に権利が享有される状態になかったことを認め、その障壁を除去する措置を各国に義務づけたのである。障害者の平等な生命に対する権利の障壁の一つとして障害者の生命が失われた場合の逸失利益の問題が存在するのである。


3 我が国憲法における「個人の尊厳」
 憲法13条が憲法の基本的人権規定の総則的地位を占め、人間の尊厳を基盤に個々人の尊厳を保障するものであるとの解釈は一般的であるが、尊厳を持った個々人はその属性(男性、女性、障害者、健常者)にかかわらず、等しくその尊厳を保障されなければならない。
 そして、少なくとも建前上は、どのような属性を持つものも生きている時には、等しい権利を(抽象的に)有することを否定する者は存在しない。ところがひとたび、障害者が事故などによって死亡するや、障害者と健常者はあからさまに差別される。民法709条の不法行為によって生命を奪われた場合に、我が国の民法に関する学説、判例は、一旦、死亡した本人が取得した損害賠償請求権を相続人が相続するという構成をとっている。極めて技巧的で観念的な説明ではあるが、今日までこの構成は維持されている。
 そうすると、死亡時の損害賠償額についての障害者と健常者の差は、死亡した障害者と健常者との間の権利の享有に関する差の問題と理解されることになる。訴状で言及した定額化理論を唱えた西原説は、このような意味での死亡による損害が死者本人に発生するという考え方を一切否定し、死亡に基づく損害賠償の問題を相続の法理から全く遮断された平面で遺族自身について考えるのが妥当だとし、その観点から死亡による損害について定額化すべきことを提唱する。このように相続という構成を否定し、遺族の損害として考える限り、死亡した被害者が障害者であるか健常者であるかによって損害に違いはないと考えられ、その差を肯定することは困難となる。他方、判例や通説のように、相続構成を取る限り、死亡した障害者と健常者との間の損害賠償額の差は、憲法14条による平等原則に違反するかどうかという問題にさらされることとなる。
 つまり、健常者と障害者の死亡による損害の差をわが国法秩序の観点から見て合理的な差だと説明できない限り、日本国憲法14条により禁止される不平等な差別となるのである。そして、同時に問題が生命という個人のもっとも基礎にある権利に関わる問題であるだけに、その差別は憲法13条の「個人の尊厳」の侵害の問題ともなる。
 それでは、憲法や国際人権規約の観点からこの点は合理的と説明できるだろうか。

 
4 個人の属性を理由として「差別」することの不合理性
(1)平成22年5月27日、京都地方裁判所は、労働災害の後遺症である醜状障害について、男女で障害補償給付に差を設けている労働者災害補償保険法施行規則別表第1に定める障害等級表が、憲法14条1項に違反するという判断を下した。
 これは醜状痕にちうて、就労状の不利益や精神的苦痛などが、男女間で大きな差があるという「社会通念」に基づくものであると考えられてきた。そこには、一報で女性の容貌に大きな価値を認め、他方、「男の価値は見かけに非ず」という女性の人権を認めていなかった時代の残滓がある。醜状障害を理由とした就労上の不利益は、女性だけとは限らないし、醜状障害による精神的苦痛についても、特に男女差があることは証明されていない。このようにかっては労働災害による醜状痕に対する補償について、疑問視されていなかった性別による差別的取り扱いが、不合理な差別であるとされたのである。

(2)これと同様に、その他の障害に基づく差別についても、その合理性について「個人の尊重」ないし「人間の尊厳」という観点に立って、社会における価値観の変化、人間の発達可能性、医学を含む科学の進歩、社会制度の変化や法律制度の変化など、多面的な面から問い直してみる必要がある。
 例えば平成13年まで、「目が見えない者」「耳が聞こえない者」「口がきけない者」は、医師や薬剤師などの資格を要するいくつかの職業に就くことができなかった。しかしこれらの法令はその後改正されて、たとえ上記のような障害があろうとも、適切に業務が遂行できるならば、その資格を得て就労することが可能となっているのである。長い間障害者の能力を封じ込めてきたのは、「目が見えない、耳が聞こえない者に医者などできるはずがない」という「社会通念」という名の固定観念にすぎない。甲59号証の1の川崎意見書は、全盲の精神科医の就労をその例としてあげている。

(3)ことは障害のみに限らない。家事労働と女性の関係でも同様である。1970年代、イタリアの女性たちが、「いわゆる『家庭内』労働が女性に『自然に』帰属する属性であるという考え方を私たち女性は拒否する」と宣言し、家事はすべての労働と同様、性別を問わず行うことができるものであるが故に、「家事労働に賃金を!」という運動を起こした。女性がその属性に最適な役割であると、長年おもわされてきた無償の家事労働に、疑問を投げかけたのである。わが国の判例も様々な工夫により家事労働に従事する主婦についても逸失利益を認めるなど属性による差別を減少させるように努力してきている。しかし、この問題は属性による差別の問題であり、憲法の平等権の侵害にあたるかどうかという意識化された問題のとらえ方がされていないために、現状や「社会通念」の追認により差別が安易に容認されているのである。
(4)問題は、知的障害や精神障害を有する者の場合にも同様である。知的障害があるから、「普通に」働くことはできないに違いないとか、自閉症だから人間関係をうまく作れず、就労は無理であると、発達途上の若年者について断定するのは、人間の発達可能性や社会の障壁の変化、それを目指す法構造の変化やその中で就労の場を作ろうとしている様々な社会での動きに目を閉ざすものであり、乏しい知識に基づく誤った判断である。
 本件で問題となっている「逸失利益」は、このような固定観念と不確実な想定の上に作り上げられた実務処理場の「算定方式」である。自閉症や知的障害を理由に「逸失利益」を認めないことは、「生きていても経済的価値を生み出さない」という、将来の不確実な稼働能力による生産性のみを、人間の価値ととらえた偏頗な考え方に基づくものである。このような考えが誤っていることは、上記障害者の権利条約前文に定める障害者の社会的価値や貢献を全く見ないものであり明らかである。そのような考え方に依拠して、障害者の生命侵害に対する賠償額を抑制することは、障害を理由とした差別的取り扱いであり、日本国憲法14条1項に違反するものである。
(5)「平等」とは何か。ノーマライゼーションの提唱者ペンクト・ニイリエは、インゲマール・ヘデニウスの言葉を借りて、「すべての人間には同じ価値があるということは、すべての人間は同じ人間としての権利を尊厳を受ける権利があり、そういった意味では特に他の人たちよりもすぐれているという人は誰もない・・・すべての人間には、人間としての価値ある状況で生きる同じ権利があるのだ」という。つまり、平等とは、すべての人が、人間としての固有の可能性を実現する人生を、尊厳をもって生きることを保障されることを意味する。そもそも憲法14条1項は、人間の価値に軽重や序列を付けることを許さない。障害を理由に、生命価値に序列を付けるとすれば、憲法の禁止する「社会的身分による差別」であると言わざるを得ない。
 「全ての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪うことのできない天賦の権利を付与されており、その中には生命、自由および幸福追求の権利が含まれる」と規定しているのは、1776年のアメリカ独立宣言である。この基本理念は、200年以上経過しようとも、たとえ宗教的な表現形態をとっていようとも、普遍的な真理であることを否定することはできない。
 そのアメリカでは今も、「個人の尊重」という理念の下、不可変な属性に基づいて差別される場合には「個人が個人として尊重されていない」ものと位置づけられているし、社会での自分の生き方にかかわる基本的選択によって、差別的取り扱いを受ける場合には、「個人の自己実現を妨げ」「個人の尊重と両立しない別扱い」は許されない差別とされているのである。
 亡晃平も、このような人間として生を受け、等しく個人として尊重され、生命権を含む人格的利益の享有主体となったのである。その生命の価値は、他の子どもと完全に平等であったことは否定できない事実である。「人間としての価値ある状況で生きる同じ権利」を憲法上保障されていたのである。確かに、多くの子どもとは異なる人生を歩んできたかもしれない。しかし、原告ら家族をはじめとする周囲の者に支えられながら、また逆に原告ら家族をはじめとする周囲の者にその発達の喜びを実感させながら彼固有の人生を尊厳をもって生きてきたのである。
 ところが、平等な価値をもって生まれ、平等な価値を維持してきた人間が、死亡したとたん、その生命侵害に対する補償について、障害を理由として明らかに差別されるということは、あまりにも不合理である。

(6)「差別」とは何か。日本国憲法14条1項は、「すべて人は法の下に平等」という前段と、「・・・・差別されない」という後段から構成されている。「差別」が「不平等」を意味するにすぎないなら、後段は必要ないはずである。「差別」には、「不平等」以上に、深刻な排除と否定を含んでおり、その結果もたらされる被害は、当該個人にとどまらない場合が多い。
 「<不平等>の語は、ある状態が理想と乖離している状態を指して用いられる言葉であり、<差別>の語は、ある行為の背景にある差別感情・嫌悪感などの心理を指摘して用いられる言葉」であることから、「差別感情に起因して発生する減少が、<差別>という現象である」とされている(甲59号証の1、7頁の引用する木村草太「平等なき平等条項」184~185頁・東京大学出版会)。つまり、「差別」とは、悪意を背景にして、選別・序列化・排除というような形で表れる現象である。知的障害者に対する差別感情は、「彼ら障害者と自分とは異なるのだ」という蔑視感情を背景に持ちつつ、その裏返しである自尊心を共有する人々によって増幅され、種々の差別として現象化される。生命を侵害された知的障害者の「逸失利益」を、不当に低く抑えてきたのは、このような差別感情であり、不当に抑制された「逸失利益」は、憲法14条1項後段により禁止されている、現象としての差別なのである。
 川崎意見書の以下の指摘は重要である。
「実務家たちが、『公平な』損害賠償額を算定するために編み出した『逸失利益』の計算方式が、一見科学的で合理性があるように見えながら、障害者に対する差別感情を助長する役割を果たしているという現実から目をそらすべきではない。それは、非嫡出子の相続分差別規定が、非嫡出子を差別する社会的風潮を助長しているのと同様である。
 人間の価値を経済的生産性という面からしか判断しようとしない考え方は、多くの障害者から生きる希望を奪い、障害児をもつ親を絶望の淵に立たせるであろう。司法が、このような判断を是とすれば、同じ状況にある人々への影響は計り知れない。『何度も経験してきたことだが、知的障害者は、自分の愚かさよりも、人々の愚かさにより、ずっと苦しめられてきたのだ』というニイリエの言葉が、ここでも想起される。
」  実務家に向けられたこの批判を私たち実務法曹は、正面から受け止め、答えることが求められているのである。


5 「逸失利益」という発想の問題点 (1)訴状で詳論したように人身損害に対する逸失利益について、人の生命は金銭に換えられないという理念的な観点から西原春夫による定額化論という本質的な批判が存在した。これに対する通説や判例の側からの反論は、人間を金銭を稼ぐ道具と見るという批判に対しては、「人間は金を生み出す機械である側面を有していることは否定できない」という程度のほとんど理由にならない反論や、従来の算定方式の不確実性に関する指摘は、幼児の逸失利益について適切だとしても、成人有職者の事案にまで一般化することに飛躍があるとか、扶養家族の有無や数、年齢等による合理的な個人差別は是認されてよいなどという西原説が批判した本質に対する再反論はほとんどないに等しい(森島昭夫「不法行為法講義」336頁~337頁・有斐閣)。
 今日の損害賠償訴訟における基準化された算定方式は、大量の交通事故の発生という事態を迎えて大量の事件処理を必要とした保険会社・裁判所による基準化が、財産的損害としての逸失利益算定方式の基礎に存在したことは否定できない事実である。
 その際、逸失利益の算定は、すでに就労している者は、事故時の収入を下に将来収入を推計し、就労前の幼児や学生については、初任給や平均賃金などの数字を基礎にした将来の獲得収入についての計算に基づいて算出されることになる。
 この時、事故に遭った被害者が障害者である場合には、作業所の作業報奨金や障害者年金以外の収入は想定されず、極めて低額の統計上の収入に基づく数字により、あるいは場合によってはそのような算定すらせず、獲得収入についてはゼロであるとして、逸失利益が算定されることとなる。

(2)このような実務に定着している逸失利益の算定方式は、基本的な矛盾を内包している。つまり、現在の知的障害者・自閉症者が獲得する収入については、作業所の報奨金を前提にするにせよ、障害者年金を前提にするにせよ、過去から現在までのわが国における障害者施策、特にわが国社会に存在する就業上の差別とその是正を促進しなかった障害者福祉政策の貧困をそのまま反映した結果である。就業上の差別や障害者福祉政策の貧困は、死亡した障害者の責めに帰せられるものでないことはいうまでもないが、将来の獲得収入の推計にあたっても、このような差別の結果を引き継ぐのは、障害という属性による差別に加え、過去の差別の結果を引き継ぐという意味で二重の差別である。

(3)しかし、「この法律は、個人の尊厳を旨として解釈しなければならない」という民法の解釈理念に立脚するとき、被害者の属性に基づいて「逸失利益」なるものを算定すること自体、生命の価値に差別を設けることであり、「人間の尊厳」を否定するものであって、民法の解釈理念にそぐわない。ましてや未成年の子どもの死について、「逸失利益」について判断することは、成年の場合以上に、無謀であるばかりか、子どもを失った家族にとって、決して納得できる考え方ではない。
 逸失利益とは、「事故がなかったら存したであろう利益の喪失分として評価算定されるもの」であり、「相当程度の蓋然性をもって推定される当該被害者の将来の収入等の状況を基礎とし、被害者個々人の具体的事情を考慮して算定されるものである」とされ、賠償額を算定する際の要素の一つとして、既に一般化され、実務上制度化されている。
 しかし一般に、制度化し、事件をそこに当てはめるというやり方は、問題の解決を容易にする反面、解決しえない問題まで解決されたかの如く錯覚させる機能を有している。結果として、「被害者個々人の具体的事情を考慮して」と言いながら、現実には、被害者自身の苦しみや被害者によって作り出されてきた社会関係や人間関係に及ぼしてきた形のない愛や喜び、あるいは消費生活一般及び障害の介助にい必要な福祉的需要に伴う社会的経済活動への参加などは、ほとんど考慮されることなく、機械的に「逸失利益」は算出されていくのである。しかもそれは、「神のみぞ知る」領域での「推定される将来の収入等を基礎として算出する」という、極めて曖昧な基準に基づいているのである。

(4)生命の侵害に対する損害賠償額を算定するにあたり、果たして、このような考え方に基づく「逸失利益」という実務上の「算定方式=制度」が正義にかなうものであろうか。
 川崎意見書は、若松芳樹教授の「人権という観念が、制度化になじむ側面と、制度化できない、あるいは制度化されるべきではない側面との2つを有している。」との指摘を前提にして、生命侵害行為に対する損害賠償額を算出するために編み出された「逸失利益」という実務上の制度は、本来、人権の「制度化されるべきでない側面」に足を踏み入れた不条理の産物なのであると結論づける。なぜなら、本件のような将来ある少年の死亡事故の損害賠償額の算定において、実務上の制度である「逸失利益」という考え方を採用することは、人権の前提となる「個人の尊重」ないし「人間の尊厳」とは、いかなる意味でもなじまないからである。
 それでもなお本件において、「逸失利益」という観点を損害額算定の実務上の制度として利用する必要があるというならば、個人の属性によって差を設けるのではなく、全ての人に共通する基準に基づいて平等に認められるべきであろうという川崎意見書の指摘は的確である。

(5)生命という価値を金銭で賠償することについては、遺族にとっても本意ではない。遺族の真に願うのは、「生きて子どもを返してほしい」という一事である。それがかなわないからこそ、せめて生命を奪われた子どもを傷つけ、貶めるような差別扱いは止めてほしいと願うのである。何物にも代え難い生命を奪われたのである。その事実による精神的苦痛は、なかり知れない。その上に、「逸失利益」なるものを計算し、生きていても価値がないという烙印を押すことは、まさに「人間の尊厳」に対する侵害行為である。なぜなら、「人間の尊厳は、人間の特性、能力、社会的地位とは無関係に人間に固有のものである」(ドイツ連邦憲法裁判所第1法廷1997年11月12日決定)からである。
 ドイツ連邦共和国基本法1条が、「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、及び保護することは、全ての国家権力の義務である」と規定したのは、優生思想に基づくナチスの蛮行に対する反省に基づいていると言われている。1993年のウイーン宣言の前文にも「全ての人権は、人間に固有の尊厳と価値に由来する」とある。世界人権宣言1条は、「人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」ことを宣言している。これら以外にも多くの国際法は、「人間の尊厳」に言及している。このように「人間の尊厳」は、国際社会の普遍的な価値であり、「人権概念の前提であり、出発点」である。
 「逸失利益」というものが、生きていればいかほどの経済的価値を生み出せたか、という尺度で人間を見るものである以上、そこに生じる差というのは、人間の価値の序列化を意味し、「逸失利益」を認めないということは、同様な障害をもつ子は生きていること自体に価値がないという烙印を押すに等しく、亡晃平のみならず、多くの障害児の「人間の尊厳」を侵害するものであり、社会における差別感情を助長するものである。
 さらに、「逸失利益」の算定が、現在の「彼、彼女」が生きていれば、どれだけの利益を生み出すか、という人間の価値の数字化である以上、障害があるか否かにかかわらず、その人のおかれている社会的身分等(それが本人の意思によるものであるか否かに関わりなく)によっても、「逸失利益」に差が出てくることもやむを得ないという理屈が導き出されることになる。現に増加傾向にある若年非正規雇用者の逸失利益の基礎収入の算定にあたっては、非正規雇用労働者は技術形成のための機会が少なく、勤続に伴う賃金上昇も小さく、正規雇用化を職業的自立の可能性が低いことから、「非正規雇用の就業形態により稼働していた場合を中心として検討すべき点はないかという問題意識が生じている」というところまで行き着いているのである。社会的身分による差別を固定化する論理として利用されつつあることを如実に示す例である。

(6)「逸失利益」という実務上の制度を、本件のような「発達可能性」のある少年の生命が侵害された場合に、機械的に算定方式を当てはめることには合理性がない。将来が長い分だけ、教育や訓練による発達の可能性、社会が作り出した障害者に対する障壁の除去、障害者支援の責任ある体制作り等々を前提として、判断されるべきである。
 確かに亡晃平のような障害を有する場合、障害のない人と同程度の就労可能性があったと推認することは困難かもしれない。しかし、16歳で事故死した知的障害のある少年について、青森地裁は、「養護学校高等部卒業時点において、他人の支援や介助を全く必要とせずに就労することが可能となるまで成長しえたというのは現実に困難であるとしても、かかる支援や介助を得ながらであれば、(故人)は簡易単純な作業には十分に従事しうるまでに至っていたものと考えられるところである。さらに、今後の医学、心理学、教育学等の進歩、発展等を考慮すれば、(中略)自閉症を含む知的障害に対する指導、支援の方法について、徐々にではあってもより効果的な手法をもたらす知見が得られる蓋然性はあるというべきであって、このような見地に立つと、(故人)が、上記のような生活および就労支援を受けながら、一定の作業に従事しつつ、社会生活を営むことにより、将来、さらにその能力を高め、より高度な労働に従事し得る能力を獲得可能となる蓋然性もあるというべきである」という判断に基づき、「最低賃金に相当する額の収入を得ることができたと推認するのが相当である」と判示した(甲37号証)。この判決は、従来からの「逸失利益」論を踏まえながら、不確定要素の部分で「人間の尊厳」を重視したと評価できる。しかし、「逸失利益」という考え方が、一見理論的でありながら、被害者を慈しみ育て、緩やかではあるが、その成長を見守り続けてきた被害者の遺族にとって、決して納得しうるものでないのは、奪い取られ確認することのできない「被害者の将来」という不確定要素を前提としていることに一つの原因がある。


6 最後に
 親にとって、子どもは宝物であると昔から言われてきた。それは障害があるか否かと関わりがない。また、障害のある兄弟があることによって、その子どもたちのうちに、知らず知らずはぐくまれる「優しさ」や「慈しみ」も貴重な無形の価値である。さらに障害者の権利条約が前文でいう障害者の存在や障害者が権利を享受すること自体が社会に与える価値や利益を考慮する必要もある。
 川崎意見書が結語で述べている部分は、「個人の尊重」を規定し、「人間の尊厳」を定めているとされる日本国憲法とそれを受けた民法の解釈にあたっては、無視されてはならない。
 「子どもの死亡損害については、逸失利益という考え方を採用するよりも、『かけがえのない生命権』の侵害、その侵害により、破壊された家族間の愛情や絆、喪失感、小さな発達に感じてきた喜び、ひいては支援や援助を受けながらも働くという喜び、それらが永久に失われてしまったことに対して、総合的な判断がなされるべきである。そうでなければ、親は、子どもを失った悲しみのみならず、『経済的価値を生み出さない子ども』という烙印を押され、子どものみならず、親までもが、『個人として尊重されない』『人間の尊厳』を踏みにじられたと感じることになってしまうであろう。」
 そして、本件の判断にあたっては、「逸失利益」という考えを基本的に排除し、「生命価値の平等」を前提とし、「人間の尊厳」にふさわしい判断がなされるべきである。そのためには、総体としての損害賠償額に種々の個別的要素を勘案して決定するのが相当であり、仮に「逸失利益」を当然の前提として考えるのであれば、現在の被害者の状況を将来にわたって固定的に考えるべきではなく、その発達可能性、支援技術の進歩、社会の側に設けられている障害者に対するバリア除去の可能性、障害者の人権保障に向けられた国際的動向、法理念を踏まえ、ことさらに障害者の「稼働能力」に重点を傾けた判断をすべきではなく、障害をもたない同年齢の人の場合と同様に判断すべきものである。
 そうでなければ、そのような運用は、日本国憲法14条1項に違反する障害者に対する差別であると同時に、障害者の「人間の尊厳」を害するものとして、憲法13条違反を犯すことになる。
 以上

(改行、太字装飾追加、他原文ママ)