×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

生涯概説 訴状添付別紙


別  紙
亡晃平の人生
1 出生
 僕(本別紙において僕とあるのは亡晃平を指す)は、平成4年1月22日、尾張旭市の浅野産婦人科で午前0時30分頃生まれました。
 お母さんは子どもが大好きで、12人ほしいくらい子どもがほしかったと言っていたそうです。僕のすぐ上の●●兄さんが幼稚園に入り育児の手が少し空いたので、子どもがほしいと願って、やっと授かった子どもだったそうです。お母さんは、僕の上の3人が姉二人、兄一人だったので、今度は男の子がいいなと思っていたそうです。妊娠中に男の子だとわかったので、「晃平」という名前にすることにしたそうです。僕がこの世に生まれたとき、僕はとても元気な産声を上げたそうです。僕は覚えていませんが、お母さんは、嬉しくなって、「よく出てきたね。晃ちゃん」と声をかけたそうです。
10カ月  家族は夜、お母さんを産婦人科まで車で送り、いつ生まれるかわからないので、いったん家に戻っていました。翌朝早々には、お父さんが運転する車で、●●姉さん、●●姉さん、●●兄さんが来てくれて、僕に会ったそうです。同じ日にお母さんのお姉さんCさんとその子のDさん(僕のいとこになります)やお母さんのお兄さん夫婦E、K夫婦も訪れて僕の誕生を祝ってくれました。もちろんおじいさんやおばあさん(お母さんの両親L、M)も来てくれました。みんなが僕が生まれたことを喜んでくれました。
 お父さんは、この後、僕のことを嫌いになっちゃうんだけど、僕が生まれたときは、お母さんが願ったとおり男の子だったので、「よかったね」と言ってくれたそうです。

2 発育の様子
 僕は、夜泣きもせず、風邪も滅多にひかない丈夫な子だったそうです。お母さんは、4人目の子育てということで、慣れていたので、僕を育てるのが楽しかったそうです。
 僕は、お姉ちゃんやお兄ちゃんと同じように、順に首がすわり、寝返りもできるようになりました。這い這いや、お座り、つかまり立ち、伝い歩きもできるようになりました。この頃まではお母さんは何の心配もなかったそうです。僕は、よく動く活発な子で、家族はみんな僕が大きくなるのを楽しみにしていました。

3 発語の様子
 僕は、1歳半の頃から単語や2語文を話すようになりました。
 お母さんによれば、後から考えると、僕の言葉は多くなく、「ちょうだい」など、自分に必要な言葉が中心で言葉の数は限られていたそうです。でも、お母さんは、3歳を過ぎれば、一気に言葉が増えることを知っていたので、気にとめていなかったそうです。僕は乗り物や動物が好きだったので、指さしては、「でんしゃ」とか「にゃんにゃん」という言葉はたくさん使いました。

4 晃平が小さな頃好きだったこと
 2才沖縄旅行  僕が2歳半の頃、家族で沖縄旅行に行きました。僕は乗り物が大好きだったので、初めての飛行機にうきうきしていました。泊まったホテルでは、とっても大きなプールがあって、嬉しくてたまらなくて、大はしゃぎしました。  僕は、いつも動いているのが好きで、寝ているとき以外は、いつも動き回っていました。車の中でも動き回ろうとするので、手を焼いたそうです。
 お母さんとはよく手をつないで出かけました。喜多山駅にあるスーパーが近くにあり、踏切がありました。お母さんと手をつないでよく買い物に行きました。電車がすぐそばを通るのが、僕にはとても面白くて、「でんしゃ、行っちゃった」と指さしてお母さんに言いました。お母さんは僕が喜ぶので、買い物でなくても電車を見に散歩に連れて行ってくれました。
 僕は、お母さんから見て、お姉さんやお兄さんより腕白な子で、好奇心が旺盛な子だったそうです。そういえば、僕は興味のある物を見つけると、それしか見えなくなり、一目散に追いかけて行きました。電車を追って走って行ったり、たんぽぽを見つけると近くでしっかり見るために走っていきました。
 僕は、珍しい物が好きで、探検が好き、家の中より外の方が好きでした。
 僕が好きな歌は、チャゲアスの「YAH YAH YAH」でした。

5 言葉が急に出なくなった。
 僕は2歳半くらいの頃、急に、話さなくなりました。少しずつ話さなくなったのではなく、本当に急に話さなくなりました。お母さんは、たまたましゃべらなくなったのかなと思い、とくに気にも留めていなかったそうです。
 僕が風邪をひいて小児科の先生にみせたとき、先生はお母さんに「この子しゃべる?」と聞きました。お母さんは「家でもしゃべらない」と答えましたが、先生は「晃平君と呼ばれれば、目を合わせるので、また時期が来ればしゃべり出すから、心配いらない、大丈夫だ」とお母さんに言っていました。
 僕は動き回るのが好きなので、「椅子に座ってなさい」と言っても、すぐ動き出してしまいます。お母さんが言っていることはわかるんだけど、すぐに動き出してしまいます。お母さんは、よくちょろちょろする子だなと感じていたそうです。

6 障害がわかった頃
 僕は3歳頃から、手づかみでなくて、スプーンが使えるようになりました。でもお話はしません。
 お母さんは心配になり、守山保健所に相談に行き、児童相談所で詳しく調べてもらうことになりました。
 平成7年4月か5月頃に、お母さんは僕を連れて、児童相談所に相談に行きました。
 このときセラピストのお医者さんは僕を診て、お母さんに、初めて「自閉的傾向」があると言ったそうです。
 お母さんが「どうしてこの子はしゃべれないのですか」と聞いたら、お医者さんは「1人遊びが好きなのか、しゃべれないから1人遊びが好きなのか、どちらかだけど、またそのうちにしゃべり出しますよ。もうちょっと様子を見てみましょう。」とお母さんを安心させてくれました。
 お母さんは、僕がそのうち、しゃべり出すものと思っていたそうです。
 お母さんがはっきり自閉症ですと言われたのは、僕がちよだ学園に通い始めた後、児童相談所のケースワーカーの先生からだそうです。
 児童相談所の人や学園の先生からは、珍しいタイプだと言われたそうです。
 僕に障害があることが分かった頃から、お父さんは、僕のことを嫌がり、これから僕をどうやって育てようということをお母さんと一緒に考えるのではなく、障害が出たのがお父さんのせいなのか、お母さんのせいなのか調べようとばかり言って、僕と遊んだり、かわいがったりしてくれたことはなかったそうです。

7 名古屋市ちよだ学園(知的障害児通園施設)
 僕は4歳から6歳まで名古屋市ちよだ学園に通いました(平成8年6月から平成10年3月)。
 ちよだ学園には、いろんな知的障害を持った2歳から6歳の子どもが30人くらい通っていて、僕は午前10時から午後4時までここで過ごしました。お母さんに自宅の近くの小幡宮前のバス停まで送ってもらって、学園のバスで通園しました。
5才  僕は、担任の先生や、職員のみんなに可愛がってもらいました。僕は、分かり合うことさえできれば、その人が好きになり、なついてしまうと、その人から決して離れません。
 僕は、とくにN先生が大好きでした。N先生に「晃平!」と叱られると、僕は、やっていたことをすぐにやめます。僕は、N先生もお母さんと同じように大好きで、いつもN先生と一緒でした。
 この頃、僕は、靴をはけるようになりました。お母さんが、先生から僕に靴を履かせるには、靴の後ろにひもを通して引っ張ることができるようにしたらいいと教えてもらい、靴の後ろにひもを通してくれたので、僕はひもをひっぱって自分で靴を履けるようになりました。
 その後まもなく、お母さんは、パンツやズボンをセットにして並べ、順に「パンツ」、「ズボン」と指示するようになりました。僕は、言われた順番に、足を入れてはくことができるようになりました。でも僕はパンツを上げ過ぎちゃったり、ねじれたりするので、お母さんが直してくれました。
 僕は先生と仲がよいので、手をつないで学園から外へ出て散歩するのが好きでした。
 水をばしゃばしゃするのも好きでした。ばしゃばしゃすると水がきらきら動くので、とても面白かったです。
 僕は年長クラスのとき(平成9年5月15日)に愛護手帳を交付されました。
 僕がいろんなことができるようになり、先生とも仲良くできたので、ちよだ学園を卒園する頃(平成10年3月)には、お母さんは、普通学校の障害児学級に進学させようか養護学校に進学させようか考えたそうです。

8 守山養護学校小学部 平成10年4月から平成16年3月
 ちよだ学園の先生は、何でもチャレンジする意味で普通学校も考えられるとお母さんに言ったそうです。でも、児童相談所のO先生が、僕は動き回ってしまうので、普通学校では外へ出ていってしまって危ないと思う、養護学校なら全部の門に鍵が付いているから、安全だと思うといってくれたので、お母さんは僕を養護学校に通わせることに決めました。
 守山養護学校の小学部には50人くらいの生徒がいました。僕のクラスは10人くらいでした。お母さんに毎日送り迎えをしてもらいました。お母さんは、お迎えのとき、いつも先生から僕の様子を聞いていました。
 僕は、本番に強いので、運動会の徒競走や障害物競走では、ちゃんとゴールまで走ることができました。だけど、それほど面白く思いません。先生がそうしなさいと言うからそうしていました。
11才兄と  小学部5年生のとき、中津川の名古屋市の施設で初めて家族から離れて泊まり体験をしました。僕の大好きなP先生はお母さんに「晃平と一緒に楽しんできます」と言ってくれて、お母さんも安心して送り出せたそうです。
 大好きなバスの中も楽しかったし、みんな一緒にお風呂に入るのも初めてだったので、とても面白かったです。とくにキャンプファイアの火が燃えているのはとても珍しくて、僕はじっと見入ってしまいました。
 だけど、僕はいつもと場所が変わると食べられなくなるので、中津川ではご飯は食べられませんでした。
 僕が小学部5年生の11月に、お父さんは家を出て行きました。お父さんは、子どものしつけは全部、母親の責任だという考えなので、僕のことに構おうとせず、お母さんとお父さんの考えることが一致しなくて、お父さんは家を出ることになりました。
 小学部2年のときの先生はおばさんの先生で、ずっとしゃべり続けている先生でした。僕は、先生が好きになれなくて、半年くらい登校できませんでした。でも、その先生が担任だったとき以外は小学部は楽しかったです。
 僕は、小学部6年生か中学部1年生くらいから、自分でタンスからパンツを出してはくようになりました。でも、まだ前・後ろはわかりませんでした。

9 中学部 平成16年4月から平成19年3月
 僕は小学部を終えて、守山養護学校中学部に進学しました(平成16年4月)。
 中学部になるとクラスの人数が増えて、3年生のときには17、8人くらいになっていました。
 僕は、中学部の間、ずっと先生と手をつないでいました。僕はいったん先生が気に入ると、ずっと先生に付いています。
 僕は動くことが好きなので、男の先生と若いお姉さんの先生が好きです。そういう先生は、僕のことを少し乱暴に振り回して遊んでくれるので、好きです。
 僕は、よく動き回って目が離せない子と言われていましたが、中学部に入ってからは、作業実習の時間、先生に言われた通り、椅子に長く座っていることができるようになりました。
中学  作業実習は学年で一番よくできたこともありました。好きな先生の言うことだと僕は頑張ってしまうのです。
 作業実習というのは、中1のときは、花クラブの先生に言われて、校庭のハーブを採り、ハーブティーや石鹸やクッキーを作りました。
 中2のときは、ハッピークラブの先生に言われて、ボルトにネジをはめたり、穴にネジを入れたり、貯金箱にコインを入れたりしました。
 中3のときは、また花クラブでした。
 中1のときから調理実習がありましたが、僕はあまり好きではありませんでした。でも、先生がこうしなさいと言うので、包丁を使ったり、食べ物を混ぜたり、食べた後に片づけをしたり、食器を洗ったりしました。
 僕は帽子が嫌いでしたが、中1の頃から、帽子もかぶるようになりました。先生がつばを後ろに回してかぶらせたり、つばを上げたりして、僕の嫌いなつばが目に入らないようにしてくれたからです。
 僕は、中学部の授業では、言われたことは全部できるようになりました。他の子ができて僕だけができないということはありませんでした。
 最初は5分からでしたが、だんだん10分、20分と集中できる時間も延びていき、先生の言うこともちゃんとできるようになりました。
 先生も、お母さんも中学の3年間で、ぐっと伸びたねと言ってくれました。
卒業式練習  僕は、先生やお母さんが言うことを理解しようと頑張りました。お母さんは、自閉症が治るのではないかと思うくらいの勢いで伸びたと言っています。
 3年間ずっと僕の大好きなQ先生が見てくれたので、僕は、Q先生を喜ばせたくてQ先生の言うことをよく聞くように頑張りました(Q先生は中1、中3の担任。中学部のフロアは3学年同じだったので、常に見ていた。中2のときに違う担任になったときも担任はQ先生の助言で晃平を指導していた)。

10 中学部当時の家族の思い出
 中1の8月、僕のいとこのDさん一家、お母さん、お姉ちゃん家族やお兄ちゃん、みんなで12人で車で和歌山の白浜まで行きました。ずいぶん遠くまで長い時間かかりましたが、僕は、おとなしくして機嫌を悪くすることもありませんでした。
 白浜のアドベンチャーワールドを一日中、歩いて回りましたが、ぐずったりすることはありませんでした。お母さんは、これが僕の本当の姿かなと思ったそうです。
 みんなが「コーヒータイムだから待っててね」と言われて一人で待っているときも、お利口にできました
 お母さんは、僕に命令しません。車に乗るときも、「車に乗るよ」と言うだけで、怒ったり押さえつけたりするようなことはありませんでした。だから、僕もお母さんに言われることができるようになりました。
 僕は、水が大好きです。中1のとき、ふわふわいるかに乗って最高に楽しかったです。僕は知っている人から離れてしまうと不安でしたが、中1のときには、いるかにも一人で乗れるようになりました。

11 守山養護学校高等部 平成19年4月から同年12月
 僕は、高1のときには出かけるときには当たり前に帽子をかぶることができるようになっていました。
高校  また、長く座っていられるようになり、落ち着くこともできるようになりました。
 お母さんは、僕が一つずつでもできるようになることがとても嬉しかったそうです。僕が発達していくことが喜びだったそうです。
 僕も頑張って、いろんなことができるようにしようと思いました。
 教えてもらわなくても、天井につるしてある風船を、椅子に乗って取ろうとしているのを見てお母さんが喜んだのは平成19年12月、僕が死ぬ直前のことでした。
風船  高1のときの担任はR先生でした。お母さんは、僕が、親しい先生には、いつも、まとわりつく子だったので、高校になってからは、1人でいられるように指導してもらうように頼んだそうです。R先生はお母さんに、「晃平君は、野放しにしてもいいので、他の子に付こうか」と言ったことがあるそうです。それくらい僕は落ち着いていられることができるようになっていました。

12 死亡
 僕が落ち着いてきて、いろんな人に相手になってもらうことができるようになったので、お母さんは僕が中3の頃から、ヘルパーというお兄ちゃんを呼んで、僕と遊ばせるようになりました。僕は、ヘルパーのお兄ちゃんも大好きで、毎日、ヘルパーのお兄ちゃんが来るのを楽しみにしていました。
 お母さんは、僕が高校を卒業した後のことを考えていました。
 そうすると、作業所で作業をすることになるので、少しでも僕が自分でやれることを増やしておきたいと考えたそうです。
 そこでお母さんは、ショートステイを利用することにしました。お母さんから離れてよそに泊まって、歯磨きやお風呂、寝ること等をあまり知らない人に言われても自分でできるようにしたいと考えました。
 お母さんは、僕には言わなかったけれど、世の中には、僕が好きになる人だけでなく、僕の言うことをなかなかわかってくれない人もいることを知ってもらいたかったそうです。そうすれば、僕もいろんなことがわかって、もっと僕が成長して自閉症も治るときが来ると考えていたそうです。
 そこで、お母さんは守山養護学校の先生に相談して、僕が泊まる先を決めました。ショートステイWITHはいいところだよと、先生から言われたそうです。
 僕は、2回、そこで泊まりました。お母さんに連れて行ってもらって、お泊まりをし、朝、お母さんが迎えに来てくれました。
 3回目のお泊まりのときに僕は死にました。僕は、どうして死んだのか、覚えていません。お母さんは、僕は眠ってしまったら起きるま途中ででおしっこに行くこともほとんどないと言っているそうです。
 僕のお葬式には、何百人もの人が来てくれたそうです。先生やお母さんやお姉ちゃんやお兄ちゃんの友達や僕と遊んでくれた人や、守山養護学校の生徒や親たちみんながお葬式に来てくれたそうです。
 僕には、死んだということがわかりません。僕は僕が死ぬということを知りませんでした。
 僕がわかるのは、もうお母さんにもお姉ちゃんにもお兄ちゃんにも、おじいちゃんやおばあちゃんや、おじさんや、おばさん、家族と同じだったDさんやEさんにも、大好きだったR先生にも、Q先生にも、P先生にも、N先生にも、会うことができないことです。もう、大好きな先生やお姉ちゃん、お兄ちゃんとも遊べません。毎年、親戚みんなで車に乗って遊びに行き、大きなお風呂に入ってばしゃばしゃしたりできません。お姉ちゃんやお兄ちゃんと散歩に出たり、振り回して遊んでもらったりできません。お母さんの膝に座ることもできません。僕がいい子にしていても、お母さんは僕をほめてくれることができません。
 僕が死ぬちょっと前に、僕はお母さんやお姉ちゃんお兄ちゃんと木曽三川公園のイルミネーションを見に行きました。僕は初めてあんなにキラキラ光る光を見ました。とってもきれいで、僕は、とってもびっくりして、自然と笑ってしまいました。お母さんやお姉ちゃん、お兄ちゃんも嬉しそうでした。僕は、もっともっと、いっぱいきれいな物を見たかったです、もっともっと、いっぱい先生やお母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃんと遊びたかったです。もっともっといい子にして、いっぱいいっぱいみんなと一緒に笑い合いたかったです。